最近のTwitterは息苦しい
2021年7月20日
最近のTwitterは息苦しい。
コロナによってコミュニケーションが減ったからなのか、ストレスが溜まっているからなのか、標的を見つけては共感という名の武器で一斉射撃する。一度敵と判定されると容赦はない。味方もろともボロクソに叩かれる。いろんな人が言いたいことを捌け口にしているような気がする。
共感というのは良い物だと思っていたけど、数が増えるとそれは大きな武器になる。そして共感されることは気持ちがいい。一種の快感のようなものだろう。
かくいう自分も少し前から政治的なことに敏感になり、そういうツイートが増えた気がする。けどそういうのはもうやめようと思う。何か言いたいことがあるならブログにしよう。自分の場合はただ言いたいだけで、共感なんていらないし、思考を整理するためにテキストにしているだけだし。
TwitterはただのWebアプリだからイイねの数やリツイートの数がものを言うようになってはいけない、と最近思う。Twitterには反対票を入れる機能がないから数の多少を基準に考えてはいけない。何かを変えたいならちゃんとした手段を選ばないと。ちゃんと自分で考えないと。
小山田圭吾の件は、自分から言えば他人が人の過去に対してなにごちゃごちゃ言ってんだっていう感じにしか思えない。たしかに当人の物言いは叩かれて当然ではある。ああいうことは言えるのは反省してない証拠なんだろう。
けど、それは当人の問題であり、いじめられた人以外がどうこういうことではない、と思う。国際的な大会で、しかも日本を代表する人間として適切ではないというのは分かるが、過去に悪いことをして反省していない人間が作る音楽が悪いものとは限らない。自分が好きなアーティストにも過去に書類送検されたバンドマンがいるが、正直反省しているとは思えない。
結局、これまでオリンピックにいちゃもんつけてきた人たちが、新たな標的を見つけて矛先を変えたようにしか見えない。言いたいだけのvoidが這いずり回っているイメージが頭から離れず、気持ちが悪い。
問題が問題を呼ぶこともあるが、問題を指摘することでしか生きていけない人間が問題を作り上げているようにも思える。
それに、人を判断するためには、一つや二つの事実だけでは足りなすぎる。インターネットに載っている情報が全てとは限らないし、正確だとも限らない。
手持ちの情報だけで判断しようとするのが間違っている。少ない情報で、確かなことが言えないなら、自分の中にとどめていたい。
自由なインターネットが好きだけど、そこで生まれるコミュニケーションがつらいもので埋まるなら、いっそのこと情報から離れてみるのもいいかもしれない。