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努力する人間になってはいけない-社会で活きる学生時代の勉強

2024年9月9日

社会人になると、毎日毎日「必要な」勉強に迫られます。(中略)「必要」に迫られて他人との関係を無視できない勉強。これが社会人の学習の特質です。「必要」「必要」の連続を通常「経験を積む」といいます。

たしかに社会人になった後の「勉強」は「経験」とは切り離せない。後輩に「家に帰って勉強してます」と言われても正直ピンとこないのは、その言葉のなかに「経験」が見えてこないからなのかもしれない。

そもそも今の若手は「必要」に迫られたことがあるんだろうか。

働き方改革とか、パワハラがどうとか、若手に無理をさせる場面は昔に比べて減ってきていて、仕事を依頼するにも結局「できる範囲の、失敗してもリカバリーできる、いわゆる安牌な仕事」を振られることが多くなってきている。

そんな仕事に慣れてしまったら「必要に迫られた学習をする方法」すら身につかないのではないか。勉強しないとヤバいということに気付けないのではないか。(ひょっとしたらぬるま湯のような意味でヤバいと思う人はいるかもしれないが。)

変な気遣いをして、経験を積む機会を摘んでしまわないように気をつけないといけない。

「ブランド」というのは、その会社が割り算だけで済むようになった事態だと言ってもよい。そうやってどんどんその内部の専門家を生んでいきます。(中略)専門家というのはいつも城壁の中で生じる人材のことを言います。「新しいこと」を考えなくなる人、壁の外で起こっている変化に目を向けない人と同じことを意味します。

なんとなく「ブランド」が確立されている会社はいい会社というイメージがあった。が、逆に言えば固定観念を周りに植え付けてしまう危険性もある。それは必ずしもいいことだけではないかもしれない。

「専門家」という言葉にもこれまでマイナスなイメージはあまりなかった。たしかに「専門がある」ということは、それ以外は「専門外」ということを意味することにもつながる。

自分でいうのもなんだけど、私は自分のことを「器用貧乏」「ケラ才」だと思っている。いろいろなことに好奇心はあるものの飽きっぽいし、続かない。一見悪いように見えるけど、何かに固執しないことは新しいものを生み出すためには必要なことなのかもしれない。

今はT型人材とはπ型人材とか、いろいろな生存戦略がある。どういう人材がどこで活躍するのかはたぶんいろいろパターンがあるから、そのとき、その場で必要な人材になれるように、横にも縦にも広げる柔軟性を身につけておくのがいい気がする。

そうなると仕事ができることの要件は、まさに「王様は裸だ」と言える純粋性なわけです。

なるほど。学生時代の勉強というのは社会に出た時に出会う間違いに対して「間違っている」と言うための知識を得るためのものでもあるのか。その発想はなかった。たしかにそういう意味だと専門学校あがりの新卒はどこか自信に満ち溢れていて、なんなら「自分の方が詳しい」という気持ちが滲み出ているがそれが正解なんだな。

とはいえ、私からすれば専門学校で教えているレベルが満足できるものではなくて、半端に自信持たれたりするのも困っちゃうんだけども。

それはおいといて、私がもう一つ、固執していないのが「働く会社」だ。たぶん最近はそういう人多いんじゃないかと思うけど「別にこの会社じゃなくてもいい」と心のどこかで思っている。「一緒に働く人」は大事にしてるつもりだけど。

偉い人に逆らってクビになるとか、そんなドラマチックな展開は現実では起こり得ないとは思っているけど、別にそうなってもいいと思っている。偉い人に気を遣ったり、遠慮したりすればプロジェクトがうまくいくなら、いくらでもそうするけど実際のところはそうはならない。

自分が言うべきことを言った末路がどうなろうと、それは受け入れるしかない。自分が大事にしている信念のようなものを曲げてまで、同じ場所に居続けることに、私は価値を感じない。

なんか昔から「少しは学生気分を残しておいた方がいい」みたいなことをなんとなく思っているんだけども、そのいい加減なテキトーさが社会で生きていくにはちょうどいいのかもしれない。人の上に立つ人間としてはどうかと思うけど。

学生時代にしっかりと勉強した人は、学校を卒業してからはもはや書物や学歴、そして教員や教授に頼ろうとはしません。その人たちにとっては、世の中そのもの、職場そのもの、仕事そのものがテキストだからです。

こんな記事を書いているくらい、必死に書物を読みあさっている(現時点で34歳)ということからもわかる通り、私は大学時代を棒に振った。「棒にふる」という言葉の使い方が正しいかどうかを検索しながら書いているくらいだ。

たしかに、私が「この人すごい」と思う人は、創作物よりも自然や人生から何かを得ているような気もする。

とはいえ、私自身は勉強してこなかったことをしっかり受け入れて、書物からも上司からも世の中からも、より好みせず吸収していこうと思う。

立場が違う人間の意見をすんなり受け入れられない

大人になった今、キャリア開発を学生時代にしっかりやっておくべきだったと本当に思う。

なぜならやりたいと思うことがあっても、そのやりたいことに必要な素養が備わっておらずチャンスをつかむために時間がかかるからだ。

学生時代にしっかりと専門的な知識を身につけておかないと、やりたい!と思った瞬間にやりたいことができないこともある。

「とりあえず大学にいけ」というのは間違っていて、自分が未来に向けて何をしたいのか、それをしっかり考える時間をとってから、そのための知識を身につけるのための大学や専門学校に通うのが大事なのだと思う。

そうなると高校生の時点で自分の将来のことをしっかり考えないといけない。自分の身の回りの大人はそこまで伝えてくれていただろうか。

もしかしたら伝えてくれていたかもしれないが、やはり何十年も歳が離れている大人の言葉をすんなり受け入れられるほど私は大人じゃなかったと思う。そんなことよりそのとき自分がやりたいことしか見てなかった。

大人になってから勉強をすることもできないこともない。仕事をしながら勉強するには圧倒的に時間が足りないので、1年間仕事を休んで勉学に励むこともできるかもしれないが、その決断はそう簡単にできるものではない。

学生の時から計画的に取り組んでおけば、こんな思いはしなくて済むんだろうな。

もちろん自分のライフステージや興味は変わるから、やりたいことなんてその時々によって違ってくる。

だから万人に対して同じ考え方が必要とは思わないが、全員平等に同じことを学ばせるだけではなく、一人の人間として考えるきっかけを作ることも教育機関には必要なんじゃないのかと思う。