マクルーハンはメッセージ
2019年2月12日
大学の頃からマーシャル・マクルーハンにはとても興味があった。 というのもゼミの先生が非常に好んでおり、メディア論について学生と熱く語ったことがあるという話を聞いたからだ。
それから何度も挑戦したものの、まじで何言ってるかわからず、
「メディアはメッセージ」
という有名な言葉のみが自分の中で一人歩きしていた。 そんな時に手に取った(というかKindleで見つけた)のが、「マクルーハンはメッセージ メディアとテクノロジーの未来はどこへ向かうのか?」。
帯を書いているケヴィンケリー氏は著書「テクニウム――テクノロジーはどこへ向かうのか?」や、「〈インターネット〉の次に来るもの 未来を決める12の法則」 が記憶に新しく、両方とも「マクルーハンはメッセージ」の著者である服部 桂氏が翻訳をしていることも購入した一つの理由。
「マクルーハンを読むなら、まずはこの本を読んでください」とコメントされている通り、読み終わったあとはマクルーハン入門にぴったりの一冊だったなと感じた。 いまなら本人の著書を読める気がする!(理解できるかは不明)
また、同じく帯を書いている落合陽一氏のコメント 「言葉の反芻よりも実装の足が早い時代を生きる現在、〈巨人の肩に立つためのハシゴ〉と〈語りながら走るための示唆〉を服部先生の筆致は僕らに教えてくれる。」 というよくわからない言葉に惹きつけられたのもある。
以下、本文中で線を引いた文をいくつか抜粋。
マクルーハンは「誰が水を発見したかは知らないが、それが魚でないことだけは確かだ」という言葉を好んでいた。
この一文は、常にメディアに囲まれている私たちがメディアというものを意識しない(できない)ことを、常に水中にいる魚は水を意識しないことに例えた言葉。 魚は水から釣り上げられた時に初めて「自分は水の中にいた」ことを自覚し、水というものを改めて知ることになる。 また、そのあとに続く一文
時代の変化は、目先の欲望に神経を集中する人より、むしろそれと距離を取って観察できる人や、本来自分がもっているすべての感覚を働かせることができる動物や芸術家のアンテナに語りかけてくる
については、仕事で新しいサービスを開発するときはどうしてもビジネス(目先の欲望)を含めなくてはならないのが難しいなと思ったことと、 自分は時代の変化に敏感であると思い聞かせて、距離を取っているふりをしているような気がした。 新しいテクノロジーを使っているからといって時代の変化を観察できているかといえばまた別の話で、ただ振り回されているだけかもしれない。
消費者と企業の力関係が逆転
SNSが出現する前は企業が消費者に対してコンテンツを一方的に流していたのが、今やTwitterやFacebook、Youtubeなど、 大企業のコンテンツは消費者が自らつくり、消費者の手によって拡散され、消費される。 今や企業は場を提供しているだけで、それをうまく利用できたものだけが生き残れるのかなと思う。
テレビはまだ企業が上な気もするが、結局テレビのコンテンツはユーチューバーがどうとか、Twitterでこんなツイートが話題とか、 結局のところ、消費者が作り上げたものだ。テレビがメディアとなるのは生放送してる時だけだと思う。
個人の手に取り戻そうと考えたテッド・ネルソンやスティーブ・ジョブズのような人たちがおり、彼らが70年代にパーソナル・コンピューターを生み出すことになる。
もともと初期のコンピューターは大企業が所有し、企業対消費者の象徴のようなものだったのが、カウンターカルチャーに感化された人たちがコンピューターを個人の手元へ という話からパーソナルコンピューターが生み出されたという話はなんだか胸が熱くなる。
拡張/拡充/、衰退/閉鎖、回復、反転
この4つの言葉を合わせてテトラッドといい、メディアの法則の基本におかれる。 新しいデバイスやテクノロジーが出た時、それは何を拡張し、何を衰退させ、何を回復し、何に反転するのか。 新しいサービスを開発するときに意識したいところ。
ビジネスでは、「うまくいったら、それは時代遅れ」という言い回しがある。つまり物事は時代遅れになって初めて、誰もが馴染んでうまく行くようになるのだ。
これは誰もがそう感じるところではあるが、だからこそ新しいテクノロジーで経営者を説得するのを難しくしているような気もする。 うまく行くようになってからでは遅いが、早すぎるとうまくいかなくて、その境界線を見極めてアピールするのが大事な気がした。